①青春 ― 気韻、立ち上がる
白い水の流れが、岩の奥から光のように立ち上がる。
ここで描いた春は、新緑や花によって示される春ではない。冬の静けさの中から、まだ形になりきらない生命の気配が生まれようとする、その瞬間である。
水と光の境界は柔らかく溶け、岩もまた水の中へと姿をほどいていく。見えるものと見えないものの「あわい」から、自然の呼吸がゆっくりと立ち上がる。
青春とは、生命が姿を得る直前の気韻である。
②梅雨 ― あわいに溶ける
雨と霧に満たされた白糸では、水は滝だけに存在しているのではない。
岩を濡らす水、宙を漂う水、霧となって山を包む水。やがて水と岩、滝と空気の境界そのものが失われていく。
作品では、形を鮮明に描くのではなく、むしろ輪郭を沈ませ、風景が現れては消える状態を描いた。
何かが見えたと思った瞬間、再び霧の中へ還っていく。
五季の中で最も深く、「あわい」そのものを見つめた作品である。
③朱夏 ― 気韻、奔る
水は枝分かれし、跳ね、交差し、岩の上を縦横に走っていく。
朱夏では、白糸の滝を一つの大きな水の塊としてではなく、無数の流れが響き合う生命体のように描いた。
白い線の一つひとつは水であると同時に、光であり、風であり、自然の中を駆け巡る「気」でもある。
静かな岩の上を、水の気韻が奔り、画面全体へ広がっていく。
五季の中で、気韻が最も激しく、最も自由に動き出す瞬間である。
④白秋 ― 気配、澄む
秋が深まるにつれ、風景から少しずつ余分なものが取り除かれていく。
水の姿も、岩の姿も、次第に淡くなり、画面の中へ沈んでいく。
ここで描いた秋は、紅葉の色彩ではない。生命が最も華やかな時間を過ぎ、静けさの中へ還っていくときに現れる、澄んだ気配である。
見えるものを減らすことで、かえって見えないものが立ち現れる。
白秋とは、姿ではなく余韻によって感じる季節である。
⑤玄冬 ― 静寂のなかの気韻
冬、風景から色彩と形が削ぎ落とされていく。
残るのは、岩の暗がりと、そこを走る水の白い痕跡。そして、それらを包み込む淡い光である。
水はもはや写実的な滝の姿を離れ、線となり、光となり、岩の内部を流れる記憶のように浮かび上がる。
静止しているように見える冬の風景にも、水は流れ続け、気韻は消えることがない。
むしろすべてが静まったとき、自然の呼吸は最も純粋な形で現れる。
玄冬は終着ではない。次の青春を内包した、五季の「あわい」である。